夏が終わったなんて、誰が言ったのだ。
この、鈍い水の中に居るような、質感と重みを持つ湿気は、
じわり、じわりとにじり寄り、全身の皮膚を静かになめす暑さは、
最盛期こそ過ぎたものの、こうして僕たを、いかんなく責め立てていた。
歩けば、歩くほど、室内のクーラーを求める声が、
頭の中に、文字通り熱狂的に滾ってゆく。
自分がドーム球場だとしたら、そこに集まる血液などのお客さんたちは、
全員が空調の熱烈なファンで、
誰一人としてこの残暑の孤軍奮闘を、歓迎する者は居ないようであった。
それでも僕は歩き回る。
身体が、いくら室内に籠ることを提案し、涼しさの素晴らしさを説き伏せても、
心が、もう散歩は懲り懲りだ、行きたいところには行き尽くしたと愚痴を吐いても、
理由は詳しく分からないが、なぜか外を歩き回ってしまう。
恐らく、
「今まで続けてきたからなあなあで続けたい」とかいう惰性が、
「せめて身体を少しでも動かさないと太る」とかいう焦りが、
僕を動かしているのだろう。
先述したように、僕はもう散歩には飽き飽きしていて、
行ったことのない、新しい場所を調べてみる、
なんていう、ものの数分あればできることも、
めんどくさがってしないという始末であった。
では、どこを歩くかと言えば、
何も調べなくても目的地に行ける、ご近所であった。
幼稚園の時から歩き慣れ、図体だけデカくなりゆく僕を見守ってきた大通りを抜けて、
まっすぐ、まっすぐ、行った先には、
もうすでに飽きるほど立ち寄って、実際飽き飽きしてしまった、大きなデパートがあって、
そいつが辟易した顔で「いらっしゃい。週に3度もご苦労さん」と言うのだ。
そこで俺は、今晩の糧となる食料品を大いに買い揃える。
そして、用事が済んだら、見飽きた顔のデパートに、
心の中であかんべえをしながら、足早に立ち去るのだ。
来たくないなら、来なければいいのに、と自分でも思う。
だが、そこのお惣菜は安い上に美味であり、
ここ無しでの生活は、今や我が家にとってちょっと考えられなかった。
そして勿論、帰りも、僕は徒歩を選ぶのだった。
再び、暑い、早く帰りたい、という、心と身体の訴えが、
僕の全身隅々までわたってゆく。
電車を使えばいいのに。僕は何をしているのであろう。
家を出る時から、僕は、ゴミ屑のようなちっぽけな妄想に浸っていた。
その世界では、クローン技術か何かで、人工的に造られた人間が、
執事、またはメイドとして売られていて、
僕は、そのうち、オレンジ色の体毛をした彼女を、2億円くらいで買うのだ。
(なんでそんな金があるのかと言われれば、
僕がたまたま潮流に乗って財を得たアーティストだから、という、
愚かしくも微笑ましい設定が付いているからだ)
人造人間たちは、家事などを完璧にこなすことはできても、
感情の振れ幅が極端に小さく、
怒ることや、自分の境遇・出自などに疑問を持つこともできない、
いわゆる、仕事だけを正確にこなす、ロボットのような存在であった。
だが、俺の世話をしたオレンジ色の彼女は、
俺の心神耗弱とした人生を憐れみ、
或いは、その中で味わった、誰にでもあるような孤独・孤立の感情に共鳴して、
徐々に人間らしい慈しみを得ていく。
物語の中盤、夫婦になった俺たちは、
まるで、漫才のような仲睦まじいやり取りをする。
それを見た人造人間売りの男が、目を見張り、驚くのだ。
そして言う。
「あなた方は、まるで、本物の人間同士のようだ。
私は、人造人間がこんな風に人間然として生きているのを、見たことがない」
彼は俺たちを、そう称えてくれた。
どうだろう?
おれの妄想の世界は、実に哀れっぽく、
俺の、存在すらしない他者の愛に縋る姿を、
克明に表していはしないか。
だが、俺は、そんな陳腐な、
ストーリーとしても、出来合いの、どこかで見たことのあるような、
造りが良いとは言えない話を、
まるで子犬が自分に与えられた唯一のオモチャであるかのように、
後生大事にしているのである。
クローンの話に限って言えば、今回は妄想がよく膨らんだ。
特に、セックスシーンは、頭の悪いアダルト・ゲームのように豊富だった。
村上春樹よろしく、オレンジの彼女が、俺の腹に陰毛を擦り付けた。
初夜のシーンだ。
彼女は昨今、俺の子を産みたい、産みたいと頻(しき)りに思うようになっていたらしい。
俺は、表立っては困惑しながら、
内心は二つ返事で、
新しい家族を迎えることを承諾した。
オレンジの彼女は、ともすると、此方が枯れてしまうほど、僕を求めてきて、
精を作っては、彼女に余すことなく捧げる羽目になってしまうのであった。
また、他にも、
婚約し、指輪を交わす際、
僕は彼女のテーマ・カラーであるオレンジ、
彼女は僕の好きな色、ブルーの、
それぞれ宝石を選んで、それを翳し合う、
ちょっと僕には似合いもせず気障というか、意味不明とも言えるシーンがあった。
その後、僕は、指輪を仮面ライダーの変身アイテムか何かと勘違いしたのか、
あらゆる場所につけてきては、ニヤニヤと眺め、または振りかざし、
会う人間会う人間を、困惑させる、という暴挙に出たりした。
妄想の中の俺は、しあわせだった。
下手なプロットの展開もここまでにして、現実にかえろう。
歩く道中、俺は喫茶店に来ていた。
腹が減っていたし、何より、遂に空調のある場所への渇望が、爆発したのだ。
そこのサンドイッチセットは、サンドイッチは何処にでもあるレベルだったが、
紅茶だけが、しっかりと茶葉から出していて異様に美味く、
総合的に、入ってよかったと十分に思わせるものだった。
そうして、俺は、空想と現実の幸せがごっちゃになった状態で、椅子に腰掛けていた。
15:00。家に帰るには、まだ惜しい時間だ。
さて、喫茶店を出たら、また新手のストーリーを考えようかな。
オレンジの彼女と、子供ができた後の話がいい。
そんな事を思いながら、俺は今日を、くだらなく過ごしていた。