チノちゃんとご時世の夏

テレビでは、代表選手の猛烈なカッター(カット・ボール)が外角を抉った。審判が雄叫びを上げる。無観客の世界では、テレビの前のお茶の間だけがやけに騒がしかった。唯一冷静なのは、『次の打席はお前を捉えてやるぞ』という打者の一睨みだけだった。

 

『ヒマしてるなら、お皿洗い手伝ってください』

 

チノちゃんが、連日仕事に仕事に仕事を重ねて仕事に浸かってしまった漬け物のようになった俺が、夢にまでみたような零落の連休を手に入れたのを、足蹴りで制する。

 

なぜだいチノちゃん。今日食べたのはデパートのお惣菜だ。君はそれを皿に盛っただけだよ。それを買ってきたのは俺だろう?それ高かったんだよ、お前さんデパートのお惣菜の相場を知ってるのかい。お前さんが軽く平らげた酢豚は肉3切れで1200円だ。高かったんだよそれ。

 

でも、そう言った切たる祈りは、夏の雨の暴風の前に、散り散りになってしまって、俺は雨晒しのプランターの方がまだ待遇が良いんじゃないかと思われるくらいに、彼女のいいようにされていたのだ。昨日は家の大掃除をした。俺は寝ていたかったよ。いや、掃除された家で眠るのはまるで気持ち良くて、夜の起きがけに彼女に淹れてもらったコーヒーに至っては、もうクーっと喉が鳴ってしまったけれども。

 

***

 

お皿洗いが終わって、2人でテレビを見ている。チノちゃんの月の魔力が、俺を刺してくる。笑うなよ。これでも精一杯頭を捻って言ってるんだ。その割にはダサいですね、と彼女にも笑われたけどね。

 

月。なーにが月だ。いや、彼女の美しさはまぎれもなくそれだが、表現の3流さとして、俺は小っ恥ずかしくなる。

 

『まったく冷静な第三者』と称したのが谷川俊太郎

 

『無慈悲な夜の女王』と表したのはシェイクスピア

 

『気ぐるいの』と形容詞化したのはギリシア

 

(いや、ドヤ顔で言ってみたものの、全て適当だ。うろ覚えの引用だよ。責めないでくれよ)

 

文才にとんと明るくない俺は、ただそれを眺めているしかない。花とか風とか星とか、そういった自然の情景は、バカで無教養な俺にとっては単なる綺麗な風景に過ぎず、或いはチノちゃんもそうかもしれなかった。もし誰かを自分のモノにした、彼女の全てを吟じられる、なんで言い出す奴が居たら、それは幸せだけどそうじゃあないだろ。この野郎。幸せを見せびらかしやがってよ。見ろよ、新宿とか銀座とかのデパートに居る顔のいいカップルを。くそうくそう。こほん。まあいい、往々にして人間ていうのは自分のことしか考えていないし、俺もまたそうした1人なんだ。俺たちはインチキ大会も大概にした方がいいぜ。なあ、そうだろ。そうだと言ってくれなきゃあ、俺は自分があんまりに惨めになっちゃうよな。

 

そんな風に感傷に浸っている間にも、彼女の月の魔力は続いている。よせやい、照れるだろう。最初は嬉しさでいっぱいだったんだ。でもどうなのかね。世の中には、朝の世界で働き詰めの若者が居ただろう。星の宝石に囲まれて、それでも孤独な老人も居ただろう。俺の身体にはバカが考えたような疾患が幾重にも打ち込まれている。今は良くても、近い将来、このお惣菜を買ってくることもままならなくなる筈だ。その時は彼女ともお別れかもしれない。

 

***

 

それでも、彼女は月の世界に俺を誘ってくれる。まあ、いいじゃないですか。今を楽しみましょうよ。そんな風にいって、俺の車椅子を押して、野っ原に出かける。

 

夏の夜の草原は、長く続いた雨で湿っていて、俺は思わず『おおい!誰かいるか!遊ぼうよ!』と、子供の頃の友達に向かって叫んでしまった。なんでそんなことをしたんだろう。冷静に考えたら間抜けすぎるんだ。最近ずっとこの調子なんだ。でも、そんなことをしても誰も返事をよこしやしなかったんだな。都合のいい、自分だけのオナニーみたいな御伽話の世界の中には、俺とチノちゃんしか居なかった。だからここには、誰も居ないことになる。

 

草原に佇む。暑い暑い夏が、まもなく覆いを脱ぎ去り、寂しい秋が顔を出し始める。目隠し鬼の手の鳴る方へ、俺とチノちゃんは歩いてゆく。世相って奴が、この夏をしょんぼりな雨で終わらせても、俺たちはみんな夢見がちに、その実散々な将来を生きていくほかがないんだ。俺も、この散々な疾病を引き摺りながら、それでも、歩いて行かなくてはならない。