無職、ブログの更新すらサボる(無能ブロガーの悩み)

 

 

ブログを始めた人のうち、1ヶ月続けられるのは7割、

 

3ヶ月続けられる人は、1割にも満たないそうだ。

 

 

 

俺がブログを始めた3週間前、そんな噂を聞いて、

 

「なんだオマエ、根性なしだな」と失礼ながら思った。

 

 

 

だが、今、まさに、俺の目の前には、

 

「めんどくさいお化け」がのっぺりとした面持ちで立ち塞がり、

 

 

僕が文章を書こうとするのを、緩やかに、優しいとも言える手つきで邪魔してきていた。

 

 

 

彼は、まるで父親が娘に聞かせるかのように、甘い子守唄を歌いかけ、

 

 

「さ、書くのをやめよう、君はよく頑張ったよ。大手を振ってサボるのは、気持ちいいぞ」

 

と、包み込むように俺をあやしてきた。

 

 

 

俺は、そんな彼の許容の大腕に抱かれ、

 

安心しきった表情で、くうくうと眠ってしまう。

 

 

 

そうとも。彼の胸に抱かれていれば、俺は無敵だ。

 

友人から「この記事のギャグ、正直サムくね?」と言われることも、

 

「夏祭りに行く話は若干物足りなかった」と苦言を呈されることも、

 

「原作のチノちゃんと性格が違う」と指摘を受けることも、

 

もう、ない。

 

 

 

たまに、たまにでいい。

 

 

なにか書きたくなったら彼の手を少しだけ離れ、

 

おうちでままごとをする赤ん坊のように、

 

毎日更新なんてやめて、1週間に1回くらいのペースで、更新すればいい。

 

そうだ。俺の更新頻度なんて、誰が決めたわけでもないのだ。

 

俺はプロではない。そんな実力も、名声もない。

 

原稿料を頂く身分ならともかく、

 

しがない初心者ブロガーが、何をムキになっているのか、という話である。

 

 

 

 

 

 

 

ブログを始めて、3週間。

 

 

俺の今月のアクセス数は、2700程度だった。

 

 

少なすぎることもないが、多くもなく、

 

 

自慢になるかは、極めて微妙と言ったところだった。

 

 

 

 

そして何度も言うように、この数は、自分で勝ち得たものではなく、

 

たまたま、SNSに、心優しい知り合いが多少居て、

 

その人達の善意のアクセスによって支えられているものである。

 

 

 

つまり、僕の記事自体は、面白いと言ったことが、まったくなく

 

逆に、「知り合いだから」と読んでくれた方を、

 

薄ら寒いノリの文体で、大いに困惑させた事であろう。

 

 

 

「面白いものが書きたい」

 

 

 

それは、SNSにドップリと浸り始めた1年と半前から、

 

僕が痛烈に思っていたことだった。

 

 

 

 

学生時代にずっと居場所が無かった、哀れな男の叫びなのだろうか、

 

はたまた、よくない目立ちたがり屋の、ちっぽけな功名心の発露なのだろうか

 

 

 

とにかく、僕は、ネットでの自分の発言が、

 

お世辞でも「面白い」と言われることに、快感を感じていた。

 

 

 

ごくたまに、僕なんかでも本当に「面白い」と感じられる、

 

キマッた発言ができた時には、

 

 

 

小さな幸福感に包まれ、その夜を一晩気持ちよく過ごせたものだった。

 

 

 

 

今にして思えば、自分はあまりに小さい、

 

小市民の中でも小市民然とした思考の持ち主だ。

 

 

 

 

いや、それは、これからもそうだ。

 

 

仮に、このブログが、多少、人に見てもらえるようになったところで、

 

 

それは果たして、何かになるだろうか。

 

 

 

こうして記事を書いている時、

 

 

書き始めてしまえば、案外スラスラと筆は乗り、

 

 

楽しく、心地よく、文を紡げるものである。

 

 

 

だが、それ以外の、ふとした日常の瞬間、

 

「お前の書いた文章ね、あれ、意味ないから」

 

と言った声が、頭の中にやんわりと響く。

 

 

 

そうして、だんだんと、更新は滞るようになる。

 

 

そこには、今更文章なんかで食べていけるようにはならない、という、

 

圧倒的な現実があった。

 

 

 

 

これから、何だかんだ、僕は書きたいものを書き続けるし、

 

それは、趣味としては悪くないものかもしれない。

 

 

 

しかし、それは決して仕事にはならないだろう。

 

それが分かっていて、今日も僕は、

 

 

頭の中で、何度も、僕の書いた文が、やがて多くの人に読まれるようになり、

 

 

僕は、それだけで暮らしていけるようになる。

 

そんな妄想を、続けるのであった。

 

 

 

哀れで、目立ちたがり屋な、小市民の活動は、

 

今日も、社会のごく隅っこで、続いている。